私と母

母は仕事の人だった。

 

我が家は父も母も働いていたので、私は保育園に通っていたし、小学校に上がったあとも学童クラブという放課後保育施設に通っていた。当時共働きの家庭や親が一人の家庭は少なく、私と同じ学年で学童に通っている児童は私しかいなかった。小学校の友達とは放課後遊べず、別の小学校の子供たちが多く集まる学童に行き、宿題をしたり本を読んだりして静かに過ごすのが日課だった。

 

母は仕事の人だった。

 

仕事が母の趣味だからということもあるし、単純に我が家が貧乏だったからということもある。

母は一見華やかなアパレル業界で、地道にパターンをひいていた。デザイナーの描いたデザインの服を実現化するにはどういうふうにすればいいかを考え、実際に型紙に起こす役割で、母の仕事場はいつも紙と布でいっぱいだった。学童が終わるのが17時、母の仕事はそんなに早く終わらないから、17時になったら私は家に帰って一人で留守番をしているか、学童の近くにあった母の職場の物置みたいなフロアで母を待ちながら宿題をするか、とにかくそういうふうにして、私は放課後を過ごしていた。

 

私は嫌だった。放課後友達と遊べないのも、家に帰っても誰もいないことも、物置で宿題をすることも、他の子たちとは違う家庭環境であることも。

 

学童に友達はいなかった。同じ小学校で同じ学年の子は一人もいなかったし、違う小学校の子たちや上の学年の子たちはすでにグループが形成されていて、その強固な輪の中には入れなかった。

私は一人で本を読んでいた。学童に置いてある絵本や小説や漫画は1年くらいで全部読んでしまった。仕方がないから小学校の図書室で本を借りて、学童で読んだ。家に帰って洗濯物を取り込んで畳んで、テレビを見ながらずっと一人で絵を描いていた。

 

放課後から夜まで、私は一人だった。どうしようもなく孤独だと思った。

 

1回だけ、会社から帰ってきた母に「なんで私のうちには昼間おかあさんがいないの」と泣きついたことがある。ただいま、と聞こえてすぐ、玄関で、仕事帰りに妹を保育園からピックアップして帰ってきた母をつかまえて。

母は一言、「気が済むまで泣けばいいよ」と言った。

 

母は仕事の人だった。

 

仕方がないことだと知っていたしうらめしいとも思っていなかった。母は仕事をしなければならないとわかっていたし、自分自身が大人になった今思い返すと当時以上に身に染みて母の気持ちがよくわかる。ただ私は確認したかった。私がそういうことを思いながら日々過ごしていると母がわかっているのかどうか、それを確認したかった。

 

あの頃のことは、思い出すと今でも胸が苦しくなる。