数年間の無意味

ある日の公園で小さな女の子がかき氷を食べながらお父さんと楽しそうに話している姿を見て、私は昔の私のことを思い出していた。

お父さんは家具のカタログを見ながら、なんとかちゃんはどういうお部屋にしたい?みたいなことを聞いていて、女の子はいちごのカキ氷を一生懸命食べながら、カーテンの色は黄色がいい、朝そのカーテンを開けて太陽を見るの、とやっぱり一生懸命話していた。きっと多分この家族はこのあたりに引っ越そうと思っていて、今日は物件を探している日なんだ。

私は3歳の頃にこの女の子と同じような経験をしている。お父さんとお母さんに連れられて、新しいうちの中に入って、ここはいいねとか、ここにあれを置こうとか、そういう話をしたことを覚えている。あの時私には家族が確かにいて、普通の人と同じような幸せをなぞって、本当に幸せだったはずだった。かき氷の女の子と同じように。

女の子とお父さんのもとにお母さんが戻ってきて、3人はどこかに行ってしまった。私は公園のベンチで1人座ったまま、しばらく動くことができなかった。

途中まで、あの女の子と私は同じだった。あの女の子がこのあと何年か後、あの優しそうなお父さんに殴られたり罵倒されたり存在を否定されたりすることなんて絶対にないだろうと思った。でも絶対なんてものはこの世にはない。私だって新しいうちに引っ越すという時に、私が私のお父さんに殴られたり罵倒されたり存在を否定されたりするなんて微塵も考えていなかった。積み上げてきたものなんて何も関係ない。想像もしていなかったようなものが突然空から降ってくることだってある。天災のように、これまでの日常と常識をぶっ壊していく。

公園でその親子に遭遇した日、母にその親子のこと、途中までその女の子と私は同じであったと思う、ということを話したら、母は「私はあの頃確かに幸せだった、こんなことになるなんて思いもしなかった」と言った。

積み上げてきたものなんて何の意味もない。むしろ積み上げたという記憶が残っているせいで、壊れてしまった事実がじわじわと心を侵食していって、いずれ意味不明の自責の念みたいなものでさらに壊れていく。きっと私も母もとっくにぼろぼろに壊れているんだろう。