ヒエラルキーと居場所、一つの世界からの逃避

曇りの日の空は灰、美術の授業の課題で使った工作用紙の裏側と見比べながら私は体育館の前でバスケットボールを磨いていた。

女子バスケ部には部誌があって、そこに新入生が交代で練習メニューとか顧問の先生やコーチの言っていたことを書き留めていく。でも、入学してから5ヶ月くらいしか経ってないのに、新入生の中には既にもう揺らぐことのないヒエラルキーができていて、部誌を書くのはピラミッドの下層にいる私の仕事みたいになっていた。ていうか、ボール磨きだってそうだけど。

ヒエラルキーというより、ただの実力主義だ。運動なんか好きでもなんでもないくせに、少年漫画に影響されて中学生になったら何か運動部に入らなきゃいけないのかななんて思ったせいで、私は週に1回しかない部活の休日を、一人ボール磨きの時間に充てている。

テニス部とかバレー部はなんかきゃるきゃるしていて、部活内でいじめがありそうな感じがしたから、消去法的な感じでなんとなくバスケ部に入ったけど、バスケ部だってきゃるきゃるしていないだけでいじめは普通にあった。2年生の中でも無視されている先輩はいるし、1年生の中でも無視されている子はいる。私は下層の人間だけど、無視はされていないからまだマシ。部誌なんていくらでも書くし、ボールくらい何個だって磨く、それが私の居場所だというのなら。

この中学には運動部しかない。文化部もあるけど吹奏楽部しかないし、吹奏楽部ってほぼ運動部みたいなとこあるし。しかもきゃるきゃるしてるからパスだったし。そうやって考えると、今の私の立場って実は最善の策の上に成り立っているものなんじゃないかって思えてくる。最善がこんな感じかよやべえな、っていうのはもちろんわかってるけど。

5ヶ月バスケ部に所属して、わかったのはバスケットボールのルールとか、全力投球のボールが顔に当たると死ぬほど痛いということとか、あと先輩が理不尽に怖いということと、私はバスケが好きになれそうもないこと。最近は体育館に行くだけで身震いするようになった。そのうち体育館に行っただけで気絶するんじゃないかな。

 

私は将来絵本作家か漫画家になりたいくらい絵を描くのが好きなので、本当は美術部に入りたかったんだけど、この中学は規模が小さいから専任の美術の先生がいないせいで、そもそも美術部自体がなかった。ないなら作ろうと思ったんだけど、先生が少なくて顧問が見つからないし、ひと学年60人くらいしかいないこの学校で、1年生の私が5人部員を集められるかというとそれがなかなか難しくて、そうこうしている間に入部届を出す締切が来てしまって、というのも、この中学校では生徒は必ず何かしらの部活に入らなくてはならないという決まりがあって、病気とか怪我とかよほどのことがない限りは、入りたい部活がなくてもどこかしらに入部しなくてはならない。宗教上の理由とかでも入らなくてよくなるのかな。わかんないけど。

 

ああ、また嫌なこと思い出した。思い出すのこれで5回目だ。

 

昨日、1年生の中で一番うまい佐川が、1年生だけで集まっているときに突然「試合の日まで禁欲生活をして練習に打ち込もう。禁欲を破ったらフットワークとシュート練習2倍ね」とか言ってきて、本当にだるいなと思った。ただのあるバスケ漫画の受け売りで、ていうかその漫画は男子バスケの話だし、男子の禁欲ってつまりはそういうことでしょ、と思ったんだけど、恐らく佐川は気づいてないっぽくてそれもまただるかった。

「禁欲って言うけどさ、具体的には何を禁止するの?」と、部内で恐らく一番かわいい顔の八木ちゃんが言う。「とりあえずー、八木ちゃんはお菓子」と佐川。え、お前が決めるのかよ。「で、平子もお菓子かな」いやだからなんで佐川が全部決めるんだよ。

独裁は良くない、私はここで一旦ジャブを入れてみた。「漫画でもそうだったけどさ、こういうのって自主的にやるから意味があるわけじゃん。強制的にやったら、ストレスたまらない?みんな」ほらどうだ。

「うーん、でもー、私痩せたいし、いい機会だからお菓子禁止するのもいいかもー」ねえ平子、確かにそうね。すごく真っ当。試合前だしな。

うんうんと頷きながら、佐川が言った。「で、大道は絵を描くの禁止な。家でも学校でも」

 

あ、大道って私のことです。

 

ということで、ヒエラルキー下層の私は今絵を描くことを禁止されている。先生から学年通信の絵を頼まれたりとか、クラスの子から合唱祭のパンフレットの絵を頼まれたりとか、そういう依頼はどうしたらいいの?と聞いたら、それも試合が終わるまでは禁止、とのことだった。手癖で描いてしまう落書きみたいなのはもちろん禁止、美術の授業は仕方がないので許す、というもので、ヒエラルキーの下層にいるとこんなにも虐げられるのか、と悲しくなった。佐川に見つかったら練習量が倍。校内でお菓子食べるわけないから八木ちゃんと平子はいいよなあ、私なんてちょっとした落書きでもペナルティなのに。見つかるリスク高すぎるし。そもそも絵を禁止することでバスケ上手くなるのか? ならなくないか?

一番解せないのは佐川の禁欲内容で、「ギターを夜9時以降弾かない」というもの。いやそれ当たり前だから。普通守ることだからそれ。本当に理不尽だ。

 

今日は曇りで空は灰色で、今の私の気持ちもどれかっていうと灰色だと思う。いやでも工作用紙の色と見比べてみて初めて気づいたんだけど、曇り空の色は工作用紙の裏よりも白画用紙の方が近い。ああ今すぐ空の絵を描いてみたい、この曇り空の色を作ってこの風景を描いてみたい、でも私は馬鹿馬鹿しいヒエラルキーに飲みこまれてしまっているから、今のこの気持ちとか気づきを表現することが許されていない。

 

約束を破ることが怖いわけではなく、そもそもそんな決まりごとがまかり通る方がおかしい。おかしいのに、私が律儀に守っている理由はなんだ? 自分の居場所を守るとか言って、そんなことを強いてくる場所っていい場所なんだろうか。

 

この色とか気持ちとかやるせなさとか苛立ちを表現できないくらいなら、部活もやめていいし学校の決まりを破って先生に怒られたっていいしいじめの対象になったっていいとその時本当に思った。白い画用紙のような空をじっと見てから私は一人、ボール磨きをやめて逃げるようにして学校を出た。